八木沼 純子さんは、1980年代から1990年代にかけて活躍した日本女子の
元フィギュアスケート選手です。1988年カルガリーオリンピック女子シングル
日本代表(14位)。世界選手権通算7回出場(最高11位)、
1993年ユニバーシアード大会優勝などと活躍されました。1995年から
プロスケーターに転向し、その他スポーツキャスター、解説者としても
活動しておられます。そんな、八木沼純子さんが、ハフィントンポストイベント
「ジョブチェンジする働きかた~選⼿からキャスターへ~」が東京で開催
されました。。5歳からスタートして22歳まで続けたフィギュアスケート選手
としてのキャリア、そしてその後、プロスケーター、キャスターへと
「ジョブチェンジ」していった八木沼さん。華やかなキャリアの舞台裏で、
その時に抱えた苦悩と決断を語っておられましたね。
今回は、最近話題の八木沼純子さんの、フィギュアスケート選手時代や
結婚の話題やちょっとビックリするような家系の話題などなど
調べて見ました。^^;
八木沼純子のプロフィール
本 名:八木沼純子(やぎぬま じゅんこ)
国 籍: 日本
生年月日:1973年4月1日
出身地:東京都
身長:157cm
体重:44kg
元コーチ:福原美和
所属クラブ:品川プリンスクラブ
引退:1995年
獲得メダル
フィギュアスケート
世界ジュニア選手権
銀 1988 ブリスベン 女子シングル
銀 1989 サラエヴォ 女子シングル
幼少時からのライバル佐藤有香とは仲良くケンカしながらも競い合ってきました。
スケートは5歳から始めました!
5歳でスケートを始めたきっかけは、その頃住んでいた家から通える距離に
品川プリンスホテルのスケートリンクがあったことが一番大きかったですね。
一般開放しているリンクの片隅で幼児のスケート教室をやっていたことから、
母親に連れられて始めたそうですね。
当時、品川プリンスホテルのスケートリンクはアイスホッケー用、フィギュア用、
一般用と3つありました。すごく恵まれた時代でしたね。
そこで、プロ・アマ通じてずっとお世話になっている福原美和先生と出会いました。
福原先生との出会いがあったからこそ、私がフィギュアスケートと深く、
ずっと関わっていくことになったと言えます。出会っていなかったら、
すぐ辞めていたでしょうね。
スケート教室では、転んでは泣くことを繰り返す生徒でした。先生から見ても、
すぐに辞めるだろうなと思っていたようです。でも、先生はいつも「痛い」とか
「怖い」といった嫌な気持ちを取り除いてくれて、最後は笑顔でまた来週ね、
と言って練習を終わらせてくれるのです。アメの使い方がとても上手で、
子供の教え方が、とてもうまい先生でした。
私は、福原先生一筋で師事しました。個人スポーツは、先生と1対1で一緒に練習し、
競技に臨んでいくものですから、先生との相性は重要です。私もアメリカに留学
しようか、外に出てみようかと思ったことはありましたが、
「やっぱり福原先生じゃないとうまくいかないな」と思ってしまいましたね。
今は15歳以上でなければオリンピックに出場できないのですが、私が出場した
1988年のカルガリー・オリンピックのころは、14歳からの出場が認められていました。
その時、私はまだジュニアの選手でした。1987年12月にオーストラリアで行われた
ジュニア選手権で2位に入って表彰台に上がることができたことから、
翌年1月の全日本選手権に出場しました。そこで伊藤みどりさんに次いで2位になり、
オリンピックに出場できたのです。
結果は14位でしたが、自分で消化しきれないくらいの、あまりに大きな舞台でした。
伊藤みどりさんからもたくさんのことを教わり、最高のオリンピックでしたね。
プロスケーターへの道と結婚の話題!
競技生活は大学4年生、22歳まで続きました。競技生活最後の年は体と気持ちの
バランスがとれ、スケートのコントロールも出来てきていたので、
「もう1年やろうかな」という気持ちにもなったのですが、「ここまでやった」
という達成感もあったので、次のステップに進もうと思いました。
幸いにも、フィギュアスケートの場合は第2のステージが用意されています。それが、
アイスショーです。小学校1年のときに品川プリンスホテルで行われたアイスショー
「VIVA! ICE WORLD」を見て、「いつかここで滑りたい!」という気持ちが、
競技生活時代を通じてずっと頭のなかにありました。私にとってアイスショーは1年に
1回夢を見せてくれる場でもあり、自分の中で気持ちをリセットしてフィギュアスケート
と向き合わせてくれる場でもあったのです。
そしてスケーターとして、プロの技術を得る場でもありましたね。
大学を卒業する時に、違う業界の仕事につくことも考えたのですが、小さい時からの
夢を叶えたい、という気持ちからプロスケーターの道を選びました。
アイスショーは競技と違って点数が出ませんが、お客様の拍手が採点の代わりになります。
お客様はシビアですね。会場によって拍手が起きる場所が違いますし、お客様が拍手を
しながら乗ってくれて「ああ、同じ空気になったな」という一体感が生まれる時があります。
毎回反応は違ってくるので、自分で演技のマイナーチェンジをしなければいけません。
プロ転向して1年目は、競技生活から離れて間もなかったので、3回転ジャンプを
飛びまくっていましたし、失敗しちゃいけないという気持ちが強かったですね。
飛べる時に飛ばないと、と思って必死でした。でも、福原先生がその時、
「お客様を全く見ていないよ」とアドバイスしてくれたのです。私も見ているつもり
だったのですが、それでも「距離が遠い。ちゃんとお客様と呼吸を合わせて滑りなさい」
と教えて下さいました。つまり、お客様を引き込みなさい、ということですね。
誰かと話をしている時に、相手の目を見て話をするのと同じく、お客様と
同じリズムで滑ることを心がけるように言われました。むやみやたらに
飛ぶだけではいけない、ということですね。お客様を楽しませる、
会場を見渡して空気を読む、といったところまでも出来なければプロとは
言えないのだなと思いましたね。と語っておられた八木沼さんですが
その後は目出度く結婚もされました!
「銀盤のゴクミ」!!と言われたのは、八木沼純子さんが、カルガリーオリンピック
に出場が決まった際、彼女に付けられたニックネームでした。ただ、ゴクミと
言っても、今の若い人たちには分らないかも知れませんが、女優・後藤久美子
さんののことですね。
八木沼さんの、美少女!ぶりが、あまりに凄かったために「第2の後藤久美子を探せ」
という意味も込めて、「全日本国民的美少女コンテスト」が開催されることになる
ほどの影響力を持った名前が「ゴクミ」なのでした。
それほどのアイドル性を持っていた八木沼純子さんも、現在では、会社員である1つ
年上の、ご主人と結婚しておられるアラフォー世代になられましたが、未だ、
八木沼純子夫妻に子供がいるという話を耳にすることはありません。
現在も多方面で活躍していますが、子宝には恵まれていないようですね。
八木沼純子の家柄が凄いらしい!
八木沼純子さんの家系を調べると、なんだか凄いらしい!と言うネットの
コメントがありました。それでは、そんな八木沼純子の父母とはいったい何を
されている人たちなのでしょうか?。八木沼純子さんの父親、は工業デザイナー
を営んでいます。母親は偶然というべきか、後に八木沼純子のコーチとなる
福原美和コーチの学校の先輩なのだとか。現役時代には、カロリーコントロール
などを母にかなり気遣ってもらっていたと八木沼さんが語っています。
ところで本題の、八木沼純子さんの家系を辿ると、それはなんと公爵家だと
いうのですね。
これだけでも八木沼純子の祖父母の家柄は相当なものだろうということは想像に
かたくありませんが、ちなみに曽祖父はあの映画で有名な日活の社長だったそうです。
公爵家の流れを組んでいる八木沼純子さん。日活社長だった曽祖父の名前は松方乙彦
と言います。彼は二度に渡る内閣総理大臣、また初代大蔵大臣を務めた松方正義の
八男坊。
つまり、八木沼純子さん、は松方正義の玄孫(やしゃご、孫の孫)ということになる
のです。また、松方乙彦の妻は山本登美といい、その父はやはり内閣総理大臣を担った
ことがある、海軍軍人としても有名な山本権兵衛。つまり二人の総理大臣の流れを
組んでいる末裔の一人に八木沼純子さんが、連なっているということになりますね。
とにかく子沢山だった松方正義。家系図を眺めてみると、指揮者の小澤征爾とも
八木沼純子さんは、縁戚になるようです。とにかく凄いというか、奥が深そうな
八木沼純子さんの祖先たち。9月にはNHKの「ファミリーヒストリー」で、
八木沼純子さん~2人の総理大臣 激動の歳月~というタイトルで、松方正義や
山本権兵衛から八木沼純子さんに至るまで、実に数世代を経たその
華麗なルーツが紹介されるそうですよ。
感心の有る方は見逃せませんね^^;
最後まで読んで頂き有り難うございます
もし宜しければコメント欄に感想などを
頂ければ幸いです!