政治経済

【衝撃事実】マララ・ユスフザイのノーベル平和賞スピーチが話題!国連で演説!

2014年ノーベル平和賞をマララ・ユスフザイさん(17)が受賞した。

史上最年少の受賞は、パキスタンで「女性が教育を受ける権利」を訴え、

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2012年10月、タリバンに銃撃された16歳の少女。その勇気と

主張を支持する声は世界中に広がり、相次ぎ賞を獲得、

ノーベル平和賞・史上最年少受賞者となる。彼女は女性教育の権利、

個人の権利をイスラム武装勢力タリバンがいるパキスタンで訴えていました。

彼女の姿はイスラム女性の希望となりました

そういえば過去にも16才~17才の女性活動家がいた事を思い出し

ました!!

そうです、まずフランスの英雄であり聖人として呼ばれている

ジャンヌダルク(16)

そして韓国独立の為に3,1独立運動を主導し独立烈士とも、

大韓のジャンヌダルクと呼ばれている、柳 寛順(ユ・ガンスン)(16)

そして、パキスタン出身の女性。フェミニスト・人権運動家。

マララ・ユスフザイ(17)この3人を独自の観点で調べてまとめてみました。

私には教育を受ける権利がある

マララ・ユサフザイは、女性フェミニスト・人権運動家。

ユースフザイやユスフザイとも表記される。

カイバル・パクトゥンクワ州ミンゴラ生まれ。

2014年ノーベル平和賞受賞

生年月日: 1997年7月12日 (17歳)

出身:パキスタン、ミンゴラ 著書:わたしはマララ

受賞歴:ノーベル平和賞、 サハロフ賞

 

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父親のジアウディンは私立学校を経営する教育者で、マララもこの学校に通い、

医者を目指していた

11歳の時のブログでは、「友達が私に『学校はタリバンに襲われるの』と聞いて

「朝礼で、タリバンが嫌うカラフルな服を着ないように言われた」などと書いたそう

その後、パキスタンでタリバン批判の14歳少女、下校途中に銃撃され重傷を負う

私には教育を受ける権利がある。遊んだり、歌ったり、おしゃべりをし、

市場に行き、発信する権利があると書き込んで タリバーン批判で14歳の

少女は銃撃を受けたそれでも彼女は、タリバンは私たち人間を恐れている。

仮に私が命を失ったとしても、教育を受ける権利の尊さに比べたら、

たいしたことではない!!

恐怖に脅えながらも、屈しない姿勢が多くの人々の共感を呼び、

とりわけ教育の機会を奪われた女性たちの希望の象徴となった。

しかしながら、タリバンは「チャンスがあれば、いつでも襲撃する」と語って

「彼女を襲撃したのは学校に行っていたからではなく、タリバーンとイスラム教に

敵対する発言をしたからだ」と持論を展開した。

マララさんの出身地パキスタンでは、イスラム過激派の支配下で「女性は家事

や育児に専念するもの」として、教育が自由に受けられないなどの理由により、

女性の6割で読み書きが困難な現実があるという。マララさんはテロ組織の襲撃に

遭いながらも信念を貫き、子どもや女子の教育について権利を訴え続けてきた。

平和賞受賞後、代表作の一つといえる伝記「わたしはマララ」の日本語版が

発刊された2013年12月以来再び、書店でマララさんに関わる本を購買する人

が多くなっている様です。パキスタンのみならず全世界の女性が教育を受けて

素晴らしい人格者に成って欲しいものですね(祈)

 

 

独立烈士、柳 寛順、はアジアのジャンヌダルク

祖国解放と世界平和のために投獄された柳寛順烈士は、

アジアのジャンヌ・ダルク。

その意義を模範として、韓日両国の友好と韓半島

(朝鮮半島)統一の先頭に立つ、との見方より神聖化されている考え方もある。

柳寛順は朝鮮の独立運動家。

生年月日: 1902年12月16日

死没: 1920年10月12日

学歴:梨花女子大学校

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「三・一独立運動は金日成の父金亨稷先生を先頭に、平壌から展開された」

とし「この日の平壌では、昼12時の鐘の音を合図に、金亨稷先生が自ら

育成した愛国的な青年学生と人民を先頭に、10万人の群集が『朝鮮独立万歳』

『日本人と日本軍は立ち去れ』

というスローガンを叫びながら、激しいデモを繰り広げた」と主張し、

「柳寛順の抗日運動は、金亨稷先生が主導した結果」とされているそう。

一緒に独立萬歳を叫びましょう!

1919年陰暦3月1日、忠清道天安のアオネ市場は普段の市の日よりも多

くに人々が集まって来ていた。市場が人で埋め尽くされると、一人の少女が

人々の間を行き交いつつ太極旗を手渡し始めた。しばらくして正午を知ら

せるサイレンを合図にその少女は事前に用意された壇上に登り訴え始めた。

“皆さん!私たちは5千年の歴史を持つ独立国民でした。ところが日本人たちに

強制的に国を奪われ従属を余儀なくされています。この事がどれだけ口惜しく

恨めしい事でしょうか?”

少女の言葉を聞いた観衆たちの間では“そうだ!その通り!”などとの掛け

声と共に拍手が鳴り響いた。少女の話は更に続けた。

“今世界ではアメリカの大統領が唱えた「全ての民族は自らが自らのことを

決める」とする「民族自決主義」の原則に従って多くの弱小国が先を争う様

に独立を求めて叫んでいます。

そして、私たちも私たちの願いが何であるかを世界萬邦に知らせる為に、

去る陽暦3月1日に独立宣言書を朗読して萬歳運動を行いました。皆さん!

私たちはこのまま知らん振りしていて良いのでしょうか?皆で一緒に萬歳を

叫びましょう!”と続けた。

アオネ市場に集まった多くの人々は柳寛順の演説が終わると揃って萬歳を

叫びながら街中を練り歩き始めた。瞬く間に街は太極旗を振りながら

萬歳を叫ぶ人々でいっぱいになった。

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これを見た日本の憲兵は人々の隊列に先廻りをして潜んでいると、

隊列が近付いて来るといきなり銃を放った。

これに柳寛順は“ここは日本人たちの銃を避けて解散して、

次の機会にまた集まりましょう”と人々を説得し解散することとなったが、

憲兵たちの放った銃によって参加者の一人が倒れた。血を見た人々の

本能は火山の様に張り裂け、人々はひと固まりとなって憲兵たちへと

向かった。これに驚いた憲兵たちは

隊へ逃げ戻ろうとしたが群衆に取り押さえられてしまう。

だがその瞬間、何処からともなく銃が放たれた

騒ぎを聞きつけて憲兵の応援部隊が駆け付けたのだった。

彼等は何の武器も持たない人々に向かって銃を打ち放ち、

柳寛順の両親もこの時に打たれてこの世を去る。

柳寛順はその後、天安警察署から公州刑務所に移送され裁判を

受けたが、

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柳寛順が裁判を受けることを知った多くの人々は彼女をひと目見ようと、

通りの至る所で待ち構えていた。

人々が集まっているのを見た柳寛順は“皆さーん!一緒に萬歳を叫びましょう!

大韓独立萬歳!”と萬歳をしながら声高く訴えるのだった。すると人々はこれに

答える様に一斉に萬歳を唱え始めた。

柳寛順を連行する日本軍将校は急な成り行きに驚き刀を抜いて柳寛順に

向かって振り降ろした。

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しかし、幸いにも刀は柳寛順の肩をかすめただけで大怪我には至らなかった。

これを見た他の人々は大いに驚いたが柳寛順は一つも

怯むことなく泰然としていた。

その後、公州裁判所で3年刑の宣告を受けた柳寛順はソウル覆審法院に

上告してソウルに移送された。

ソウルに行く途中も多くの人々が集まっている所を通り過ぎる時には必ず

萬歳を唱えるのだった。

いよいよソウルで裁判が始まると検事も判事も全て日本人であった。

これに柳寛順は私が私の国を愛して独立萬歳を叫んだことが何の罪で

私がどうして仇である者たちから裁判を受けなければならないのか?

とし日本人官吏の裁判を受けないと堂々とした態度で伝えるのだった。

これに日本人判事は怒り心頭で立ち上がると“この小娘が!天皇陛下の

御意を受けた法を収める法官の前で何たる態度か?と机を叩いて怒鳴った。

これにより柳寛順への判決は3年刑に法廷侮辱罪が加わり

7年刑が下された。

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柳寛順は西大門刑務所に送られると一日も欠かすことなく

萬歳を叫ぶと、その都度鞭打たれるという日々を送った。しかしこうした事が

原因となったのかある日、柳寛順は獄中で倒れてしまう。

日頃から大韓のジャンヌダルクになると言っていた

柳寛順はジャンヌダルクと同い年の16歳でこの世を去ってしまう。

1920年10月のことであった。

日本は柳寛順の死を公表しないまま処理しようとしたが、

死の翌日には母校の梨花学堂の知るところとなりフライ校長などの

努力により遺骸は母校の梨花学堂に移された。

母校に戻った柳寛順の遺骸は体中が傷だらけで見る者の目を熱く

させたが、柳寛順の顔は微かに笑っているように見えたという。

韓国と言う国を考えるとき、本当に怨み辛みの多い出来事が山のように

積まれたままなんだと感じてしまいますね~(忍)

ジャンヌ・ダルクは、15世紀のフランス王国の軍人。フランスの国民的ヒロイン

映画ジャンヌダルクは、国境も世代も越えて誰もが知る、

フランスの救世主、ジャンヌ・ダルクの物語。

神がかり的な活躍をし、その後たった2年で儚く散った彼女の存在は、

過去にも絵画や小説だけでなく映像に舞台にとさまざまなジャンルで

語られ、描かれてきた。

生年月日: 1412年

出身: フランスドンレミニラニビュセル

死没: 1431年5月30日, フランス ルーアン

兄弟:ピエールダルク・、キャサリン・ダルクジャックマン・ダルク

親:イザベル・ロメ、ジャック・ダルク

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百年戦争下のフランス。人並み外れて信仰心豊かな少女、ジャンヌ・ダルクは、

ある日自らの村をイングランド軍に焼き討ちにされ、目の前で姉を虐殺される

という悲劇に見舞われる。心に傷を負い、

教会の神父にやり場のない感情をぶつけるジャンヌ。彼女のあまりの悲しみを

目の当たりにした神父は彼女に「いつか神が、お前を必要とする日が来る」と言う。

そして数年後、フランス王家の元に、ジャンヌからの手紙が届いたのだが・・・

フランスの英雄として扱われてきたジャンヌ・ダルクを一人の少女という視点から

描いた映画。全体を通して宗教と神の存在を絡めながら進行するが、

同時にジャンヌは神の使いではないと否定的に描いている。

また、作中にたびたび登場する大規模で迫力のある攻城シーンにより、

娯楽大作としても評価が高い様である。

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一貫して当時の状況をリアルに描いており、ジャンヌの目の前で彼女の

姉の服を引き裂いたあと刺し殺して死体を強姦したり、ジャンヌが処女か

どうかを確かめるために性器の中に手をいれるのをギリギリの場所から

撮影したり、宗教裁判でジャンヌが捕らわれている際に、

男達に囲まれて殴る蹴るの暴行を受け、飯を顔面に投げつけられる

など過激な描写が多々ある。

結局は映画であるのだけれど紛れもない歴史の史実であることに

この3人の少女達の凄さをつくづくと感じたものです。

やっぱり、平和ボケと言われようが何といわれても

平和と協調互いを認め合うと言う姿勢が大切なのでわ

と思いました。

最後まで読んで頂き有り難うございます。

もし宜しければコメント欄に感想などを

頂ければ幸いです!

 

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