倍賞千恵子さんといえば『下町の太陽』で歌手としてデビューし、第4回日本
レコード大賞新人賞を受賞し、NHK紅白歌合戦にも4年連続出場し、歌手としても、
![ba16](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
女優としても、数々の作品を世に知らしめた、大女優の一人としてその名を知らない
人は少ないでしょうね。山田洋次監督の映画『下町の太陽』に主演して以降、
山田作品に欠かせない庶民派女優となりましたね。倍償千恵子さんは、歌う女優さん
の中では、その歌唱力は群を抜いていて、「下町の太陽」のほかにも、「さよならは
ダンスの後に」や「おはなはん」「忘れな草をあなたに」「あざみの歌」など
素晴らしい歌声を聴かせてくれましたね。そして、歌だけでなく、映画でも
渥美 清主演の『男はつらいよ』シリーズで寅さんの妹役「さくら」を演じ、
![ba10](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
渥美清・倍賞千恵子のコンビで、ロングヒット作品になりましたね。
又、高倉 健、主演の、「駅」や「幸せの黄色いハンカチ」なども、味のある作品
だったと、思いますね。
![ba12](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
その、大女優、倍賞千恵子さんも、気がつけば74歳の熟女になっておられましたが
最近では、ラジオのNHK・FMでの、終戦特集オーディオドラマ「昭和20年の
ベートーベン~焼跡(やけあと)に響いた第九」が放送されることとなり、
太平洋戦争末期、第九をきっかけに出会った男女の姿を通じて平和の大切さを描く
という。主演の倍賞千恵子さん(74)は「戦後七十年の節目に、戦争はいけない
ことを伝えたい」と語っていましたね。
![AS20140603002677_comm](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
今回は、歌手であり女優としても大活躍された、その名作といわれている作品の
ポイントのような所と、倍賞千恵子さんの気になる結婚の事や、子供さんは
どうしているのかなどなど、まとめて見ました。
倍賞千恵子さんの透き通った歌声をどうぞお聴き下さい^^;
スポンサードリンク
目次
倍賞千恵子プロフィールとエピソード
本名:倍賞 千恵子(ばいしょう ちえこ)
![ba17](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
生年月日:1941年6月29日
出身地: 東京都北区
血液型 :AB型
職業:女優・歌手・声優
ジャンル:映画・テレビドラマ
活動期間:1961年 –
配偶者:小六禮次郎
著名な家族:倍賞美津子(妹)
公式サイト 倍賞千恵子 オフィシャルウェブサイト
映画『下町の太陽』・『男はつらいよ』(シリーズ全48作)
『幸福の黄色いハンカチ』・『ハウルの動く城』
![13](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
西巣鴨生まれ。東京都北区滝野川に育つ。父は都電の運転士、母は車掌であった。
倍賞家の名前の由来は、珍しい倍賞姓は秋田県鹿角郡(現鹿角市)十和田大湯に
ルーツを持つそうで、先祖は佐竹藩に仕えた守衛で、先祖の一人に頭の良い人が
いて書記に抜擢され、何かの賞を受けたのがこの姓の由来であるという。
幼少時は「のど自慢」荒らしとして知られ、みすず児童合唱団を経て、1957年、
松竹音楽舞踊学校に入学。1960年、同校を首席で卒業し、松竹歌劇団(SKD)13期生
![ba13](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
として入団する。グランドレビュー「東京踊り」で初舞台を踏む。この年から、
主席入団生にフィナーレの先頭を切って大階段を降りる栄誉が与えられ、
バトンガールに扮した倍賞がその初代を勤めた。
1963年、山田洋次監督の映画『下町の太陽』に主演して以降、山田作品に欠かせない
庶民派女優となりました。『下町の太陽』は映画・歌だけでなく、現在もそのフレーズ
自体が倍賞の代名詞になっています。
↓
もっと詳しくは此方から!
倍賞千恵子の演技が出色だった高倉健主演の「駅 STAION」
この映画は、82年の第5回日本アカデミー賞で最優秀作品賞に選ばれ、高倉自身も
最優秀主演男優賞を受賞しています。
高倉の役どころは北海道警の警察官で、五輪にも出場した射撃選手である三上英次。
![ba1](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
舞台となっているのは北海道の札幌市、増毛町、雄冬岬。
「1979年12月 桐子(倍賞千恵子)」。英次は年末年始の帰省のため、故郷・雄冬に向かう。
英次は警察官を辞めることを決意していた。12月30日、雄冬への連絡船はしけのため
欠航となった。英次は居酒屋「桐子」に入り、店主の桐子(倍賞千恵子)と意気投合し、
翌31日も連絡船が出ないため、2人は留萌へ行き、映画を見て、その後、男と女の関係
になった。英次は自身が警察官であることを、桐子に話さなかった。
![ba](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
年が明け、2人はそのまま初詣へと向かうが、そこで桐子を見つめる一人の男の姿を
英次は見逃さなかった。
英次が連絡船で増毛に戻ると、桐子が待っていた。札幌に帰る途中の留萌駅で、
英次は警察官から職質を受けて身分を明かし、増毛で警察官が襲われたことを知る。
女の声で「犯人は指名22号」とのタレコミがあったと聞いた英次は、気になって
増毛に戻り、桐子のアパートへ向かう。
そこには指名22号の森岡が潜んでおり、拳銃を撃とうとした森岡を桐子の前で射殺。
![ba4](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
はからずも、上司・相馬の仇討を12年越しでする格好になった英次であった。
札幌に帰る前、英次は「桐子」に立ち寄ったが、桐子はよそよそしい態度だった。
列車に乗る前、増子駅で英次は退職願を破って、ストーブに入れて燃やし、
警察官を続ける決意をする。
英次に心を動かされながらも、惚れた男である森岡のことを忘れられず、
![ba2](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
自ら警察に通報しながら、かくまった桐子の複雑な女心が印象的な作品だった。
同作での倍賞の演技もまた出色で、この映画を名作へと導いた功労者だと
評価は高いですね。
スポンサードリンク
倍賞千恵子、渥美さんとの“秘話”語る「キャバレー回ろう」
女優の倍賞千恵子が3日、『寅さん クラシックコンサート』記者会見に出席。
倍賞さんは、「寅さん」の愛称で親しまれた渥美清さんと「キャバレーを回る」
という構想があったことを明かしていました。
寅さんの妹役「さくら」を演じた倍賞。ある時、渥美さんが「おい、もしよ
『男はつらいよ』を撮らなくなっても、まだ食っていける方法があるんだよ」
![ba11](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
と話しかけてきたといい「お前(倍賞)が歌を歌って、俺が司会をやって、
(佐藤)蛾次郎が切符を切る。それで3人でキャバレー回るんだよ。
それなら食っていけるよ」と楽しげにプランを話していたと振り返った。
その後、同シリーズは1969年から95年まで計49作も放映される“国民的映画”
となり、翌96年に渥美さんが亡くなったため結果的に“キャバレー回り”は幻の
構想となってしまったが、倍賞さんは「まだ渥美ちゃんが元気だった時に、
そんな話をしたことがありましたね」と優しく微笑んでいたそうですね。
聴いて想像する「戦争」 NHK・FMでラジオドラマ
ラジオのNHK・FMは、終戦特集オーディオドラマ「昭和20年のベートーベン~
焼跡(やけあと)に響いた第九」を放送する。太平洋戦争末期、第九をきっかけに
![ba15](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
出会った男女の姿を通じて平和の大切さを描く。
主演の倍賞千恵子(74)は「戦後七十年の節目に、戦争はいけないことを伝えたい」
と語っていました
ドラマは、一九四五年六月十三、十四両日、東京・日比谷公会堂で日本交響楽団
(現NHK交響楽団)によるベートーベンの「交響曲第九番」の演奏会に約六千人の
観客が集まったという話を基にしている。
九十歳の昭子(倍賞)は二〇一五年夏、日比谷公会堂に第九の演奏を聴きに来た。
昭子は終戦間際に東京で行われた第九の合唱団の一人だった。四五年三月十日の
東京大空襲で、昭子は修二(吉見一豊)に助けられる。
六月に開かれる日比谷公会堂での演奏会に向け練習にはげむ昭子は、修二に再会。
互いに好意を寄せる二人は演奏会での再会を誓うが、修二は出征してしまう。
ラジオドラマ出演は久しぶりの倍賞さんは「戦争の記憶が薄れてきた今だから、
戦争を伝えるドラマに出演した」と言う。
倍賞さんは戦時中、茨城県に疎開していた。疎開先では苦しい生活を強いられ、
![ba8](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
母親が語った「B29が焼夷(しょうい)弾を落とし家が燃えた」という
体験談を覚えていると言う。
「戦争は国と国がけんかして人が訳もなく殺される。そんな理不尽なことはない」と
倍賞さんは語り、「ラジオドラマは少なくなっているが、終戦の日に耳を傾け、
戦争の悲惨さや平和の大切さを感じて」と話している。
今年はラジオ放送開始九十年。ラジオドラマも一九二五年に始まり、
娯楽が少なかった時代に絶大な人気を誇ったものでしたね。
五二年から五四年までNHKで放送された「君の名は」(菊田一夫作)は、
「放送時間に銭湯の女湯から客が消えた」と言われるほどの人気でのちに映画化。
その後、開局した民放でもラジオドラマが放送され、人気を競い合ったが、
六四年の東京オリンピックを契機にテレビの普及が進み、ラジオ人気は衰退し
ドラマも姿を消して行きましたね。
現在はNHKの「FMシアター」や「新日曜名作座」などが長寿番組で根強い
支持を集めているようです。
倍賞千恵子さんの旦那さんは音楽家の小六禮次郎
昔の青春ドラマとか、2時間サスペンスとかの音楽をよく手掛けていた人です。
倍賞千恵子の旦那の小六禮次郎
![ba5](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
倍賞千恵子の旦那の小六禮次郎こちらがお相手の小六禮次郎ですね。
でもこの2人の結婚自体が遅かったけれど、倍賞千恵子さんて子供は
いるんですかね?
93年2月、倍賞は8歳下の作曲家・小六禮次郎氏と再婚しました。
つきあいだしたのは7年前だったそうで、
小六氏にも前妻があったのですが、離婚が成立しゴールイン。やっと
一生を添い遂げる伴侶を見つけたのだった。
![ba7](https://i2.wp.com/trendy-da.net/wp-content/plugins/lazy-load/images/1x1.trans.gif?ssl=1)
だから子供はナシ。倍賞千恵子さんて子供はいるんですか?
そして結婚がおそかったので子供は無しという事だそうなのです。
小六禮次郎と倍賞千恵子のツーショット
スポンサードリンク
最後まで読んで頂き有り難うございます
もし宜しければコメント欄に感想などを
頂ければ幸いです!